甲子園が交流試合という特殊な形式で復活しました。今年の春の選抜出場校32チームが、各チーム1試合のみの交流試合という形式です。また各都道府県単位で独自の大会が行われています。3年間頑張ってきた3年生への花道という位置づけです。色々賛否両論ありますが、「自分の高校野球に決着をつける」という、3年生のためには非常に大切な方向であり、自分は高く評価します。
そこで今回から自分の心に残る甲子園出場校とその試合について紹介していきます。
1988年第70回大会 浦和市立高校(現さいたま市立浦和高校)初出場
1988年夏の甲子園は昭和最後の記念大会でありながら、前年度、立浪(元中日)片岡(元阪神)野村(元横浜)橋本(元巨人)等を擁するPL学園が春夏連覇を成し遂げ、他にも伊良部(元ロッテ)、斉藤隆(元横浜)、佐伯(元横浜)、鈴木健(元西武)、谷繁(元横浜)、大道(元巨人)等後のプロ野球で大活躍する大物たちがそろった大会であり、それに比べると目立った選手が少ない地味な大会と言われていました。
しかしこの1988年大会にも、仁志(元巨人)、真中(元ヤクルト)、川崎(元ヤクルト)、島田(元横浜)、高嶋(元オリックス)、前田(元広島)等逸材が出場していました。その中で台風の目となり「高校野球を変えた」とまで言われたチームが、「間違って甲子園に来ちゃった」「甲子園見物しに来たつもりが試合してた」とまで言われながらも、「さわやか旋風」を巻き起こしベスト4にまでかけ上った初出場浦和市立高校です。
浦和市立高校は高校野球の何を変えたのか
浦和市立高校が高校野球を大きく変えた部分は、「グラウンドで笑顔を見せる」という事です。浦和市立はピンチでマウンドに集まった時、見方が好プレイをしたとき、逆にエラーをしてしまったとき等、それぞれの場合に笑顔を見せていました。
今ではグラウンドで笑顔を見せるのは普通で、むしろ笑顔を作る事で味方をリラックスさせる効果もあり、表情、ガッツポーズを見せることは普通になっています。
しかしそれまでの高校野球は、全国最強の「広島商業」を御本尊とした「野球道」ともいうべきな「スポーツ」というより「武道」といった面持ちでした。「グラウンドで笑顔を出すな、ガッツポーズするな、対戦相手に失礼だ」というような精神論がまかり通っていました。
そこに普通に笑顔を見せ楽しそうに野球をする普通の高校生が表れたのです。
当の浦和市立高校メンバーたちは、笑顔を見せていた理由を「普段練習で厳しかった監督が、甲子園来た途端優しくなったのがおかしかったから」と、特に意識して笑顔を見せていたわけではないと語っています。

1988年浦和市立高校とはどのようなチームだったのか。
浦和市立高校は甲子園出場校中、チーム打率2割4分9厘(出場校中最下位)、最多三振、最低身長と、決して戦力に恵まれていたわけでもない、体格も他のチームよりはるかに劣る、「普通の公立進学校の兄ちゃんが間違って甲子園に来ちゃった」というようなチームでした。
甲子園出場が決まった際には、学校に「お前たちが出ても面白くないよ」という苦情の電話があり、それについて当時の野球部部長も「確かにうちが出ても見栄えしないなあ」と語っています。
当の部員達も春の練習試合から負けっぱなしで、練習試合のたびに「また負けるんだ嫌だなあ」と完全に自信を失っていました。(当時のエース星野投手談)
その様な状態で夏の県予選の抽選会があり、キャプテンが引いた初戦の対戦相手はDシード校所沢北高、監督が思わずキャプテンに「昼飯抜きだお前!」と言ってしまうような最悪な状態でした。
しかし、県内の強豪校の潰し合い等もあり、トーナメントの隙間をかいくぐり決勝進出、サウスポーが大の苦手なチームは、埼玉屈指の左腕熊崎擁する市立川口高を何故か打ち崩し、県ベスト8が目標だったチームは甲子園出場を決めます。
しかしこの時点で浦和市立メンバーは、まだ自分たちが甲子園に行けることが自分たちでも信じられませんでした。
無欲で挑んだ甲子園を駆け上がる
そして「負けてもともと、甲子園は高校球児のお祭りなんだから思い切ってやってこい」という監督の激をうけ、無欲で甲子園へと挑みます。そして1回戦佐賀の常連「佐賀商業」相手に5-2、二桁安打で勝利、2回戦前年度初出場準優勝、仁志、島田擁する「常総学院」相手に6-2で勝利、ベスト16選抜ベスト4、真中、高嶋擁する「宇都宮学園(現文星芸大付高)」に2-1で勝利、そして埼玉高校野球伝説の試合、選抜ベスト8大会ナンバーワン左腕木村擁する「宇部商業」との試合に挑みます。
ここまでの試合では、エース星野がひたすらストライクゾーン低め両コーナーいっぱいを突くコントロールと、堅実な守備、ひたすら単打を打ちに行く打撃(思い切り振ってもパワーがないので単打にしかならなかった)で勝ち上がってきました。
しかし流石にエース星野も疲れが見え3点を先制されます。しかし6回表ランナー2塁で星野の打ったショートゴロが、野手の手前で大きく跳ね上がりタイムリーヒットとなって1点を返し浦和市立の反撃が始まります。7回には甲子園で急に打撃開眼した3番阿久津の2点タイムリーツーベースで同点、エース星野も本来のコントロールを取り戻し、ヒットを打たれながらも両コーナー低めを丁寧に突く投球で打たせてとり延長戦に突入します。
そしてこの試合のクライマックス10回裏「宇部商」の攻撃が始まります。10回裏「宇部商」はヒットと四球でノーアウト1,2塁のチャンスを迎えます。「宇部商」の名将玉国監督は3番に送りバントを決めさせます。1アウト2,3塁のサヨナラのピンチとなり、浦和市立から守備の伝令が出ます。監督からの指示は「高校野球のお祭りなんだからサヨナラ負けを気にせず思いっきりやってこい!」と「4番と勝負」という指示でした。通常、他のどのようなチームでもこのようなケースは、4番を敬遠して次の打者でダブルプレー狙いがセオリーです。
しかしエース星野が「宇部商」4番力丸に投げた初球は、一番の得意玉外角低めギリギリのストレートでした。この「4番と勝負」の姿勢は名将玉国監督を驚かせ、また4番力丸も気負ってしまい、結果内野フライ。次の先制ホームランを打った当たっている5番も気負ってしまいセカンドゴロでスリーアウト。浦和市立は絶体絶命のピンチで「勝負」を選んだことでサヨナラのピンチを乗り越えます。
そしてもう一つのクライマックス11回表、浦和市立の攻撃となります。浦和市立も同じように1アウト1,2塁のチャンスを作り、2番に送りバント、3番打撃開眼しこの日4安打で甲子園通算打率打率5割を超えた阿久津を迎えます。「宇部商」玉国監督はセオリー通り阿久津を敬遠、4番横田との勝負となります。この日4番横田は1安打とヒットは打っていましたが、あまり宇部商のエース木村とはタイミングがあっていませんでした。しかし甲子園でのこれまでの試合から、チーム内でも「おいしいところで打つ」とからかわれ、チャンスにめっぽう強い横田は、初球の低めギリギリのカーブにうまく合わせて、前進守備の「宇部商」外野の右中間を抜くタイムリースリーベースで一気に6-3、続く5番も初球カーブをとらえ右中間を抜く連続タイムリースリーベースで7-3と試合を決めます。
11回裏エース星野は、「宇部商」の攻撃をランナーを出しながらも無得点に抑え、ついに浦和市立は初出場で準決勝に駆け上がりました。
試合後のインタビューで浦和市立中村監督は、興奮しながらひたすら「信じられない」と連呼し、玉国監督は「4番の差が出た」と肩を落としました。
力尽きてもなお笑顔で
準決勝で浦和市立の長い夏は終わります。元々県大会ベスト8を目標にしていたチームは、甲子園で延長戦2回を含む3試合をこなしており、エース星野を含め完全にガス欠、大事な扇の要であるキャッチャー黒沼も腰を痛めリタイアと満身創痍で、この大会で優勝した「野球道」御本尊「広島商業」との戦いになります。「広島商業」の殺気にも似た気迫に飲み込まれ、「広島商」伝統の隙を逃さない機動力野球で初回に2点を先制されます。その後一度は2-2と追い付きますが、エース星野はランナーに出た際思わず座り込んでしまうなど疲労困憊、ついに力尽き4-2で「広島商」に敗れます。

出典:photo-ac.com
しかし試合後のインタビューで浦和市立メンバーは、悔し涙を見せず甲子園でいつも通り見せていた笑顔で「ここで負けてよかった」「もし優勝してしまったら一生の運をここで使いつくしてしまうと思った」と語っています。
また甲子園後、高校日本代表に選ばれた阿久津、横田両選手は、大会ナンバーワン右腕、「津久見」川崎の投球や、他の選手たちのプレーを見て「僕たち球拾いでいいです」と苦笑いしながら語っています。
なぜ浦和市立は埼玉高校野球の伝説となったのか
なぜこの浦和市立の快進撃が埼玉高校野球の伝説となっているのか、選抜優勝の「大宮工業」「浦和学院」、夏優勝「花咲徳栄」では伝説とならないのか、それは当時の高校野球の置かれた環境が大いに影響していると思います。
まず前述した「野球道」に当てはまらない、楽しく野球をする普通の公立高生が全国のベスト4まで上り詰めたこと。
また多くの地域では、新興私立校が甲子園で名をあげ生徒を集めようと、有望な中学生球児を青田刈りしていた流れが、関東で唯一公立優位県として残っていた埼玉でも起き始めており、「浦和学院」が当時埼玉最強だった「上尾」から名将野本監督を引き抜き、全国から選手をかき集めて成績を上げていたこと。また公立でも「大宮東」が県内から同じように有望選手をかき集めて強豪となっていたこと。それらの流れとは真逆の、「地元学区内の軟式出身の普通の高校生」だけで甲子園ベスト4まで駆け上がったこと。
典型的な「無欲の弱いチームが戦うたびに力と自信をつけ、並み居る常連高、強豪高をなぎ倒していったジャイアントキリングチームであること」があります。
当時小学生だった自分も、この「近所の兄ちゃんたちが甲子園楽しそうに野球をしている姿」を見て、高校野球を含む野球全般が好きになったきっかけでもあります。

出典:photo-ac.com
最後に熱烈な高校野球ファンであった、有名な作詞家阿久悠氏が、浦和市立の戦いぶりに感動して学校に送ったメッセージの一部を紹介します。
「普通の人が、普通のことを、普通に徹底することで、「特別」を凌ぐことを君たちは鮮やかに証明して見せた。」
以上です。